Activity企業活動

TOP > 企業活動 > 自由帳

自由帳

自由帳

「生命を守る “土” ~植樹」

 「自然と人間-生きているシリーズ」という富山和子氏が書いた素晴らしい本がある。娘が夏休みの感想文を書くというので買ってきたものだ。このシリーズの本によると、「土づくり」が最も大切だということである。

「土のはじまり」…地球に最初に土が出来たのはいつごろだろうか。以前に、似たような話をしたが、約4億年前の地球の陸地は岩だらけの生命のない死の世界であった。最初の原始植物(海の藻のようなもの)の根は、岩と岩の隙間に入り、斜面を登りはじめる。これが土のはじまりである。植物の根が土になっていったのである。

「土が山へと変わった」…土が出来ると緑が生え、少しずつ少しずつ土と緑が増えていく。どんどん岩が土でつながれていって土が厚くなっていった。気の遠くなるような繰り返しの末、岩だらけの山が、緑に覆われた山に変わっていった。

「土の中に水が貯り、川ができた」…土が厚くなってくれたおかげで、雨の水をたっぷりとふくんだ。こうして地球の陸地に、はじめて水がとどまるようになった。川に水が流れるようにもなった。どんどん緑が増えていき、森林ができ、動物たちもどんどん進化していった。

「土づくりの循環」…動物たちは死ぬと土にかえった。土の中の小さな生物たちは死骸やフンをかみくだき、また土をつくっていった。4億年にわたる地球の土づくりの歴史の中で、ひとつ大切な法則があると著者は言う。
「どのような植物も、どのような動物も、みんな土づくりに参加する」ということだ。

海の水は蒸発して雲になり、風で移動して、雨となって地上に降りてくる。土があるおかげで水が地中にとどまる。土の中から湧き水となって小さな川ができる。やがて大きな川となり、水は海に戻っていく。土のおかげで森林ができ、土砂崩れがなくなった。上手に川が流れるようになり、動植物は育ち、お米もつくれるようになった。そのおかげで人間は生きていけるのである。

道具を使い環境を変えていく文明人が登場したころから、地球の土づくりはおとろえはじめた。人間はどんどん木を切り倒して建物をつくった。やがて工場をつくり自然に還らない物質を開発し始めた。コンクリートをつくり大切な土の上を覆い始めた。川もコンクリートで囲った。汚い水や化学物質、油を流し、ゴミを捨て、大切な川と海の水を汚し始めた。

本来、海はいのちの母だった。陸地のあまったもの一切を受けとめてくれていた。土になりきらなかった有機物や動物のフンや死骸、木の根や枝、海はそれをうまく受けとめ、海の生き物たちの養分に変え、新たな命を養っていた。始末できない岩石なども上手にかき砕いて波や風をつかって砂に変え、砂浜として地上に返してくれていた。でも今ではゴミの質も違うし大量すぎて海はそれを受けとめられなくなった。まして海岸線もコンクリートで固められてしまった。

地上はコンクリートだらけになった。どんどん木を切り、緑の地を街に変えていった。生命や大自然の循環に大切な土と緑をなくし、水を汚し、空気も汚していった。それはとどまるところを知らず、世界中で狂ったように続けられてきた。そしてとうとう恐れていたことがやってきた。“地球の温暖化”である。

かつて日本列島は、戦争のために、はげ山だらけの焼け野原となった。しかし当時の日本人は偉かった。土と緑と水、自然の大切さを知っていたのである。日本列島中で木を植える運動がおこった。「昭和の大造林」である。その時に日本人が植えた木は、1000万ヘクタール以上、実に国土の30%にもなる広さに木を植えたのである。そしてはげ山列島を再び緑の列島に変え、土をつくり、水をつくり、海までも蘇らせてくれたのである。

しかし、現代人は、その努力をも無にしてきたのである。もちろん、私自身もその一人である。便利さの恩恵を受けている自分はとても偉そうなことは言えない。

それでも、国土づくりを担う仕事をしていることもあり、少しでも環境に配慮した活動をしようと、会社で取り組んでいることはある。当社の環境保全活動、これまで9年間で削減した二酸化炭素量を計算すると、杉の木4286本が吸収する二酸化炭素量と同じになった。(やっと、4200本のスギの木と同じ仕事ができるようになった。)

世界から尊敬されている、ものすごい日本人がいる。宮脇 昭先生(みやわき あきら、生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授)である。
雑誌「致知」に掲載された先生の談話を要約してご紹介します。
「私は経済活動に全く縁のない、生命の問題を扱って58年、国内外38カ国を歩いて森林を調べ続けた男です。そして世界1700か所で4000万本以上の苗木を皆さんと植えました。」
「人類が誕生したのは約500万年、40億年の生命の歴史を1年と考えると、人類の誕生は12月31日の20時ごろ。まして文明が現れるのは12時59分です。2008年にアメリカで端を発した経済危機、株や札束が一時的にどこかへ偏ったからと言って100年に一度の危機だと大騒ぎしていますが、この40億年の地球の生命活動では、ビッグバンといわれるような大変動が何百回、何千回も起きています。一番大切な生命の本質を忘れて、紙切れの札束や株券で右往左往しているのは、まったくもって不幸だと思うのです」
「アフリカのケニアで森づくりをしました。貧富の差がはげしく、今日の食べ物を今日中に探さなければならない人たちです。ところが実に熱心に植樹に取り組まれる。雨の中、裸足で泥んこになりながら10本20本と植えていく。少し晴れ間がさすと、大喜びで歌い出す。それだけでベリーハッピーなのです。幸福とは生きていることそのものです。生命は宇宙の奇跡以外の何物でもない。緑の自然がなければ生きていけないのです。それを、物も水も少ないアフリカの皆さんは本能として知っていて、木を植えたことで生命が喜んだのでしょう。…一方、日本人の多くは、高級ランチを食べながら、「私はこんなに不幸を抱えている」と悩んでいる・・・」
「私は木を植えることに何の責任感も義務感も感じていません。ただ気がついたら空気のように行っています。…私は木を植えます。そんな場所がどこにある?と。何をおっしゃる。三本植えれば「森」、五本植えれば「森林」です。私はまだたった81才ですから、あと30年は木を植えます。世界中の人が、一人一本植えてくれれば、あっという間に60億本ですよ。それだけのことです。そうして世界の森を蘇らせ、万年先まで地球と人類の生命をつなげていきたい。それが私の志であり、夢であり、何よりの楽しみです。」

(完)
2011.7.13(2012.12.16改定)
「ハッブル宇宙望遠鏡が見たビッグバンから間もない宇宙」

2010年1月、NASAは「最も遠い宇宙の果ての撮影に成功した」と発表。高度600キロの大気圏外に浮かぶハッブル宇宙望遠鏡が、131億光年離れた天体をとらえたのです。この生まれてまもない131億年前の宇宙の姿に、宇宙創世の謎を解き明かす手がかりが隠されているというのです。この2010年に放送されたNHKの映像は本当に素晴らしいと思います。

137億年前、ビッグバンにより宇宙が誕生したそうです。
2010年時点で、ハッブル宇宙望遠鏡(宇宙に浮かんでいるマイクロバス程度の大きさのNASAの望遠鏡)で見ることができる一番遠い星は、131億光年の彼方にある星です。(宇宙は膨張し続けているので光の波長から考えると赤ければ赤いほど遠い星だそうです。)この星の光が地球に届くまでに131億年かかっているということは、131億年前の光を今見ているということで、131億年前の宇宙の姿を見ていることになります。所謂、ビッグバンから6億年後の宇宙の姿が見られたということです。それは青い光を放つ星が密集した歪な形の小さな銀河であったそうです。

それ以前の姿はまだ見ることが出来ていません。2018年以降に打ち上げ予定のジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は、ハッブルの約3倍で、口径が6.5mあるので、更に遠くの星を見ることができるのではないか、ビッグバンから間もない宇宙が見られるのではないかと期待されています。
ビッグバン直後の生まれたての宇宙はどうなっていたのか、ビッグバンから6億年間の宇宙の姿は予測するしかありません。それをカブリ数物連携宇宙研究機構という東大の研究所の吉田先生が数学と物理を使って世界で初めて計算したそうです。
計算によると、ビッグバン直後の宇宙は真っ暗になったはずだといいます。星や銀河はおろか光すらなく暗闇だけの世界が何億年間も続きました。この暗闇から最初に何が生まれるのか、その後どうやって今のような星や銀河があふれる宇宙になっていくのか。

(ここまで書いていたら偶然にも世紀の大発見があったとのニュース。)
2012年7月4日の新聞の一面には、「ヒッグス粒子発見!」の見出しが掲載されました。ヒッグス粒子は世の中の最も基本的な粒子の一つで、物に重さを与え、質量の起源と言われる粒子だそうです。この国際チームからなる欧州合同原子核研究所(スイス)の発見は人類の大発見だとのこと(スイス・フランス国境の地下100mにある1周27キロのドーナツ形トンネルに世界最高のパワーを誇る加速器が設置され、マイナス270度に冷やした強力な超電導磁石を1200台以上並べて、宇宙誕生直後に迫るようなエネルギーを瞬間的に生み出す装置を使う実験だったようです)。このヒッグス粒子は宇宙誕生に大きく関わっているようです。ヒッグス粒子はビックバンの100億分の1秒後、温度が1千兆度に下がったときに生まれ、海のように空間を満たしたとされます。他の粒子は、それまで重さ(質量)を持たず光速で飛び回っていたが、ヒッグス粒子の海の出現により、水の中を進むときのような抵抗を受け動きにくくなった。この動きにくさが質量の起源と考えられています。

真っ暗な宇宙にあったのは水素、ヘリウム、それともう一つ何かの暗黒物質だったそうです。吉田先生によれば、1億年かけて水素や暗黒物質がしだいに寄せ集まり(ヒッグス粒子により質量が生まれたことで寄せ集まるという現象も起こったのだと思いますが)、2億年後、それは次第にクモの巣のような細い筋へと変化していきました。ところどころに密度の高い部分が現れ、3億年後、寄り集まった水素の中心部がどんどん濃くなり熱を帯び始め、星の卵になりました。無尽蔵にある水素を集め太陽の150倍にまで成長した星の卵、自らの重みに耐えられなくなり一気に縮みます。中心部は超高温・超高圧となり遂に輝き始めます。星の誕生です。

暗黒の中で最初に生れたのは銀河でもブラックホールでもガス雲でもなく、強烈な光を放つ1個の星だったというのです。明るさは太陽の100万倍以上、超高温の巨大な星は色で言うと青白か白に近い星。大量の水素から作られるファーストスターです。ファーストスターが1個できると、同じような星が次々と生まれてくるとされています。コンピューターが導き出した生まれたての宇宙は、青白く巨大な星がぽつぽつと散らばる幻想的な世界でした。

ハッブル宇宙望遠鏡がとらえた131億光年の彼方の天体、ビッグバンから6億年後の天体は、いくつも見つかりましたが、どれもファーストスターに似た青い星が寄り集まる銀河でした。誕生まもない銀河は渦巻状ではなく歪な形であり、私たちの銀河系の20分の1ほどの大きさでしかなく、強烈な青い光を放つ巨大な星々が群れ集まるものでした。それはファーストスターから何世代か後の星々であると考えられているそうです。
そんな生まれたての銀河がいくつも存在する青い世界、宇宙が赤ちゃんだったころのNHKで観る映像はとても感動的でした。

※(追記)2013年に、宇宙誕生の推定時期は、米衛星WMAPの観測に基づく約137億年前から欧州宇宙機関(ESA)の天文衛星プランクの観測に基づく約138億年前に更新された。

※(追記)2021年12月25日12:20、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がギアナ宇宙センターから打ち上げられた。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は地球から150万キロの位置にあり(ハッブルは570キロ)、全長21m(ハッブルは13.2m)、鏡の大きさは6.5m(ハッブルは2.4m)、望遠鏡の性能はハッブルの数十倍以上と言われているそうです。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は、人類が見たことのない驚くほど高繊細な天体画像を地球に送ってきているそうで、ビッグバンから2億年後の宇宙や、地球外生命の探索も期待されています。

(参考: 2010年放送・NHKより)
2012 . 7. 4
『地球大進化46億年・人類への旅』

 ここ数年、自分とは一体何なのか、どういうわけで存在しているのか、どこからどうやってここまで来たのか、そんなことを考えているうちに、とうとう地球の誕生から現在までの道のりを知りたくなりました。そんな時、やはりNHKはいろいろなことを教えてくれます。私たちの祖先は本当に過酷な環境を生き抜いてヒトまでになってくれた、信じられないくらい気の遠くなる道のりだったようです。長い長い物語ですが忘れたくないのでここに書きとめておこうと思います。


「46億年前、大衝突による地球誕生」
最新の研究で、地球は大変動をくり返して生まれた星であることがわかってきました。その中でも、最大の変動は40億年前に起きたと考えられている「全海洋蒸発事変」です。直径400キロもある巨大隕石の衝突によって、すべての海洋が蒸発し、海底さえも溶け出してしまうほどでした。この未曾有の危機を生命は地下に進出することでくぐり抜けました。最新科学と映像技術で迫る、地球46億年の壮大な旅のプロローグです。(この青字部分は番組紹介のもの、以下同じ。)
46億年前、地球は厚い雲に覆われていました。雲の下に入ると一面に赤の世界が広がっています。大気の量が現在よりはるかに多く、地上に赤い光しか届かなかったからです。そして当時、大陸はなく、ほとんどが海に覆われていました。さらに今の地球との決定的な違いがありました。地球の大きさは現在の10分の1しかなかったのです。
この小さな地球の周りの様子も今とは違っていました。同じようなミニ惑星が、現在の水星、金星、地球、火星のある範囲に約20個ひしめくように並んでいたのです。20個のミニ惑星は、約1000万年の間、太陽の周りを平穏に回っていました。
異変はその後に起きました。お互いの重力によりミニ惑星の軌道がずれ、衝突が起こったのです。小惑星同士が衝突すると2つが1つになり質量が2倍になりました。衝突の回数が多いほど、惑星は大きく成長します。水星は1個か2個のミニ惑星から作られました。金星は8個前後が合体してできました。火星は1度も衝突していないミニ惑星の生き残りと考えられています。そして地球は、およそ10個の小惑星が衝突して今日の大きさになりました。
地球が経験した最後の衝突は劇的なものでした。9個が合体して大きくなった原始地球は、度重なる衝突でうすくなった大気の隙間から、海が見えたようです。そこへ最後のミニ惑星が近付いていき衝突しました。衝突の勢いで融けた岩石が宇宙空間に飛び出していきます。そして原始地球の重力により再び引き戻されます。
しかし、このときの衝突では破片の多くは地球表面には戻らず周りにとどまり続けました。ミニ惑星がぶつかった場所が中心をはずれていたので破片が遠くまで飛ばされたからです。当時の地球から空を見上げると、破片が土星の輪のようにちらばっているのが空いっぱいに見えたはずです。破片はお互いに衝突をくり返し、合体していきました。やがて大きなひと塊りにまとまっていきます。これこそ私たちになじみ深い星、月です。こうして月という衛星をもつ惑星、地球が完成しました。
(ちなみに、月が出来た頃の地球は、自転速度は1日8時間で現在の3倍の速さ、地表に吹き荒れていた風は風速250mもあったといいます。月の引力の影響で引き起こされる一日二回の潮の満ち引きが、地球の自転に少しずつブレーキをかける役割を果たしているらしく、そのおかげで現在は1日24時間であり、何もかも吹き飛ばすような嵐も収まったというのです。現在でも自転にブレーキはかかっており、約1億年後には地球の自転は止まると言われています。また、アポロ計画で宇宙飛行士が月面着陸した際に、月面に反射鏡を置いてきたそうで、その反射鏡にレーザーを当てて距離を測定していますが、月は毎年4cmずつ地球から遠ざかっているそうです)
こうして偶然にも地球が大きくなったことが、私たち生命が生まれる大切な条件でした。地球が大きくなってはじめて、生命が長く繁栄できる星になったというのです。それは、隣の星、火星を見ればわかります。最新の探査で、昔海を持っていたことがわかった火星、太陽からの距離もほどよく、生命が栄えてもおかしくない星でした。しかし、今では海も消えてしまいました。小さいままで終わった火星は重力も小さいため、海や大気を引き留めることができなかったというのです。

「40億年前、全海洋蒸発」
この46億年の間に、地球は大変動をくり返してきた荒ぶる星であるそうです。
その最初の出来事ですが、40億年前に、直径400kmの隕石が地球に衝突しました。衝突地点は4000~6000度で太陽と同じくらいの高熱となり地表を急激に溶かします。急激に融けた岩石はすさまじく高温の岩石蒸気となります。衝突から1日で地球は灼熱の岩石蒸気に覆いつくされます。海が沸騰をはじめ1カ月後には海面は干上がり、海底は真っ白な塩で覆われます。その塩もたちまち蒸発していき、海底は溶岩のように融けだします。岩石蒸気は地球全体を1年近にわたって覆い続け、生命を根絶やしにしました。
生命は全海洋蒸発で絶滅したかに見えましたが、ところが最近、生物は全海洋蒸発をも生き延びられたはずだと考えられています。その考えを裏付ける発見がアメリカのニューメキシコ州の塩湖でありました。微生物は何億年隔離された状態で休眠していても条件が整えば復活するというのです。南アフリカの金鉱山には地下3500mの坑道があります。研究の結果、微生物は地表3000m地下にも進出していました。このように地下に進出した微生物は地球を火の玉に変えた全海洋蒸発を経てなお、命をつないでいたのです。
衝突から1年後には岩石蒸気が消え、気温が少しずつ下がっていきました。そして1000年後、蒸発した海の水が豪雨となって降り始めます。雨は2000年間降り続き、ついに海は元の深さまで回復しました。
目の前に再び現れた海という新天地。地中にいた微生物の中には、早速また冒険をはじめるものが現れました。3000年間住み続けた地下を離れて海の中へと再び進出していったのです。その中には私たちの祖先もいたにちがいありません。こうして40億年におよぶ進化の歯車が、再び回り始めたのです。

「22億年前、6億年前 全球凍結」
およそ6億年前、地球は平均気温マイナス50℃以下、真っ白な氷で覆われていたことがわかってきました。この頃、地球を訪れた宇宙人がいたら、死の星だと思ったかもしれません。この全球凍結状態は数百万年も続き、生命を絶滅の淵に追い込みました。しかし、この危機をくぐり抜け、小さな生命が地球を酸素あふれる星に作り変えたとき、微生物に過ぎなかった生命は、大量の酸素とコラーゲンを使って大型生物へと進化したのです。
この6億年前の全球凍結があったからこそ、現代の私たちは存在するのだという仮説があります。6億年前、地球は氷に閉ざされました。平均気温はマイナス50度以下、海は1000mの深さまで凍りつきました。この全球凍結は数百万年続き、当時まだ微生物だった生命を絶滅の淵に追い込みました。さらに、氷が解けると地球は一転して気温50度の猛暑に襲われました。風速300mの巨大ハリケーンが生まれ、生き残った一握りの微生物たちを襲いました。ところが、こうした大変動を命からがら生き延びた私たちの祖先は何故か突然、大進化を遂げます。全球凍結の後の海には、地球史上最初の大型生物の楽園が広がっていました。生命は微生物から大型生物へと進化していたのです。この一連の物語を詳しく見ていきたいと思います。
2万年前のマンモスが闊歩していた最近の氷河期は、氷に閉ざされていたのは北極と南極に近い地方だけで、それ以外の地域では生物に影響はありませんでした。6億年前の氷地獄は、そんな生易しいものではありませんでした。当時の地球は、宇宙から見れば、大きな氷の球だったと言われています。シミュレーションによれば、日本を覆う氷河の厚さは地上1000mの高さにも達したといいます。
全球凍結が起きる前の地球は、陸地には何の生命もなく、生命は微生物として海にいました。その中の3種類の微生物がこの物語に登場します。第一は私たちの祖先であるプランクトンに似た生物です。そして、その祖先には大切なパートナーとして、太陽の光を利用して酸素と栄養分を作りだす第二の生物、光合成生物がいました。彼らが作る酸素を呼吸し栄養分を食べて、私たちの祖先は生きていたのです。そしてもう一つ、第3の微生物、全球凍結の原因はよくわかっていませんが、実はこの第三の生物であるメタン菌が関係していると考えられています。
6億年前の地球の海では、メタン菌は大量のメタンをせっせと作っていました。そのメタンこそが、6億年前の地球を温暖に保っていたとされています。メタンは二酸化炭素の20倍という強力な温室効果があるからです。そのおかげで、私たちの祖先と光合成生物は栄えることができました。
ところが、この3者のバランスが崩れたとき悲劇が起きたと考えられています。光合成生物の出す酸素が多くなりすぎ、化学反応を起こしメタンを消滅させました。メタンを失った地球は急激に冷え込み、地球は全球凍結に突き進んだのです。なんと、海の微生物がそんなことを引き起こしたらしいのです。
全球凍結の氷地獄の中、私たちの祖先はどのように生きたのでしょう。それは、氷に閉ざされた地球でもマグマの活動は続いており、海の中の温泉が湧き出る部分である地熱地帯で、光合成生物に寄り添うように生き延びたとされています。
では全球凍結はどのように終わったのでしょう。数百万年にわたって氷に閉ざされていた地球ですが、その間も火山の活動はたんたんと続いていました。氷を融かしたのは、火山から噴き出す二酸化炭素の温室効果でした。本来二酸化炭素は海に融けてしまいますが、しかし、当時の海は厚い氷で覆われていたので、二酸化炭素が大気中に溜まりに溜まっていったのです。数百万年かかって二酸化炭素濃度が現在の300倍に達したとき、強烈な温室効果によって、ついに氷河は大崩壊をはじめます。こうして二酸化炭素の荒療治によって全球凍結は終わりました。
氷が解けたあと、地球に何が起きたのか。それは、酸素が大発生したと言われています。もともと地球には酸素が全くありませんでした。そして少しずつ光合成生物が酸素を出していきましたが、せいぜい現在の20分の1に過ぎませんでした。なかなか増えなかった酸素が全球凍結により何故激増したのか。
氷を溶かした膨大な二酸化炭素が地球を温め続け、マイナス50度から一気にプラス50度まで気温を上げました。高温にさらされた海上からは盛んに蒸発が起こり大量の水蒸気が巨大なハリケーンへと成長を始めます。ハイパーハリケーンです。中心気圧300ヘクトパスカル、最大風速300m以上という考えられない規模のハリケーンです。海岸には高さ100mを超す高潮が押し寄せます。このハイパーハリケーンが酸素を増やす最後の切り札となりました。
この頃、海の底には海底温泉から湧き出た栄養分が溜まりに溜まっていました。全球凍結の間、生物が絶滅寸前だったので栄養分が利用されずに残ったのです。その深海に至るまでハイパーハリケーンが激しくかき混ぜ、大量の栄養分が海の浅い部分まで広がりました。
生命はこのチャンスを逃しませんでした。栄養たっぷりの海に陽の光がさしたとき、温泉に避難していた光合成生物が爆発的に増え始めます。盛んに光合成を行い大量の酸素を一気に出しました。光合成生物の緑に染められた緑色の海、そこには周りの生物がいくら使っても余りある膨大な酸素が満ちていました。こうして遂に、地球は酸素あふれる星に生まれ変わったのです。
酸素が満ち溢れる緑色の海の中、光合成生物に寄り添う微生物だった私たちの祖先は、新たな挑戦を始めました。酸素をたっぷり吸って、その高いエネルギーを存分に利用しました。それでもまだ酸素は余っていました。その余った酸素を使って大量のコラーゲンを作り始めました。実はコラーゲンは大量の酸素があって初めて作られる物質だそうです。このコラーゲンで自分たち微生物の身体をつなぎ大型動物に進化できたというのです。
35億年もの長い間、微生物のままだった私たちの祖先はついに限界を打ち破り、大きく目に見える存在になりました。この時、私たちの祖先は、私たちの背骨になる脊椎の原形をもつ生物へと進化していったのです。全球凍結がなかったら、私たちはバクテリアのままだったかもしれないのです。こうして全球凍結のおかげで大型生物が誕生しました。よくぞ厳しい環境を生き延びてくれて、しかも大きく進化してくれたものです。

「4億5千万年前 大陸大変動による大海からの離脱」
4億年前、大陸移動により生存に適した浅い海が減少し、生存競争が激化しました。私たちの祖先である魚類のユーステノプテロンは、弱者だったため浅い海を追われ、大陸の内部にできた淡水の新天地へ進出します。その進出を助けたのは、地球最初の木アーキオプテリスです。淡水域での酸素不足や激化する生存競争に勝ち残るために、私たちの祖先は肺で呼吸を始め、手を進化させました。その進化が上陸への決め手になったのです。
46億年前の地球誕生、40億年前の全海洋蒸発、22億年前と6億年前の全球凍結と進んできましたが、やっと4億年前まで来ました。いよいよ生物が陸を目指す場面です。
この頃、陸上に動物や植物の姿はありませんでした。対照的に海は生命あふれる世界でした。4億5千万年前の地球では、赤道直下に小さな大陸が3つ存在していました。その大陸の間に挟まれるように浅い海が存在しました。その海をイアペトゥス海といいますが、この海こそが生物の上陸の物語の舞台になります。
太陽の光にあふれる浅い海は、当時の生物にとって楽園でした。サンゴ礁が広がる海に様々な生物が泳ぎ回っていました。この頃の私たちの祖先はアランダスピスといい体長20cmの魚のような形をしていました。
地球内部は数千度という高い温度で、マントルが対流しています。その対流に乗り3つの大陸が移動します。この移動がイアペトゥス海に大きな異変をもたらしました。3つの大陸が移動を始め、徐々に接近していったのです。迫りくる大陸にはさまれた海は、くり返し大規模な地殻変動に襲われます。サンゴは絶滅しました。魚たちは大切な住みかを失ってしまいます。数千万年の時を経てイアペトゥス海は消滅し海底は陸地へと押し上げられていきます。
3つの大陸が一つにまとまったことで、魚たちの海は大陸の周りだけになりました。生息地が狭まればそれだけ生存競争が激しくなります。魚たちのなかには大型化して生き延びようとするものもいました。三葉虫も棘のある身体になり武装をします。私たちの祖先も進化をよぎなくされ、ヒレを持ち力強く泳ぐユーステノプテロンという魚になっていました。しかし私たちの祖先は、それだけでは海での競争を勝ち残ることはできませんでした。巨大な魚たちが浅い海を支配したとき、新たな戦略をとらざるを得なかったのです。それこそ、海を去るという大きな決断でした。
4億年前、3つの大陸が一つにまとまった後も、大陸は動き続けます。大陸同士の衝突現場は両側から押され次第に盛り上がっていきました。衝突現場が四千万年にわたって隆起をつづけ、巨大な山脈へと成長を続けたのです。この山脈こそ、カレドニア山脈と呼ばれ、8000m級の山々が連なっていたと考えられています。巨大な山脈の誕生は斜面に大量の雨を降らせるようになりました。雨が巨大な川をつくります。こうして大陸の内部に、巨大な川という新たな淡水の世界が誕生したのです。淡水は生存競争弱者の逃げ場となりました。
そのころの大地はまだ荒涼としており、とても生物の住める場所ではありませんでしたが、アーキオプテリスという幹をはじめてもつ植物が誕生したおかげで、大地に初めて森が誕生しました。太陽が照りつけていた地面は、木陰で覆われ、森の間には湖や沼地ができ、水中生物にとっては新しい住みかが次々と生まれました。私たちの祖先ユーステノプテロンが海を離れ淡水の世界に進出したのはちょうどこの時期にあたります。森の栄養分をいっぱいに貯め込んだ淡水域で魚たちは多様な進化をとげていきます。
ところが淡水の魚たちに厳しい試練が訪れます。3億7000万年前に厳しい乾季が訪れたのです。乾季には川の水位が下がります。水が減り水温が高くなると水中に融け込んでいる酸素が少なくなり、水中は深刻な酸欠状態になります。淡水を生き延びるにはこれを克服しなければなりません。こうして魚たちの一部は肺を持つようになり肺で呼吸することを覚えたのです。
3億6000万年前、地球上に手をもった生物が初めて誕生しました。私たちの祖先ユーステノプテロンが胸ビレを手に、腹ビレを足に進化させ、体長1mのアカンソステガという生物に進化したのです。この1000万年の間に、なぜ手足を進化させたのでしょうか。
当時の淡水でも生存競争が激しくなっており、体長が5mの大きな牙をもつ生物が存在しました。私たちの祖先は、この獰猛な大型魚にかなうはずがありません。当時の水中は大量の枝が落ちていた湿地帯になっており、私たちの祖先アカンソステガは生き残るために、身を隠すように枝の中で息をひそめて生きていました。そういった環境の中で枝をかき分けながら静かに移動するために手足が進化したと考えられています。それが思わぬ飛躍につながりました。
手を持ち枝をかき分けることができた私たちの祖先は、大型魚が入ることができない浅瀬や水際に進出することができました。陸でもなく水中でもない、そんな中間段階である水際に適応できると、陸上生活に必要な身体の変更は比較的しやすいと考えられます。あとは世代交代を繰り返す中で陸に適応できる生物へと進化していったと思われます。
アイルランド南西部に浮かぶバレンシア島、ここはかつてカレドニア山脈のふもとに広がる湿地帯だった場所です。1992年、この海岸で行われた発掘調査で私たちの祖先が残した足跡が260歩、動物が手足を左右交互に出しながら歩いた様子がくっきりと刻まれています。これこそ私たちに通じる最古の足跡なのです。陸上を歩いた最初の動物は、体長約1m、アカンソステガの子孫にあたり、ペデルペスと呼ばれました。たった1種類の生物が成し遂げた上陸は、地上のすべての脊椎動物につながる大きな飛躍だったのです。

「2億5千万年前 大量絶滅 プルーム大噴火による哺乳類の誕生」
2億5000万年前、生物の95%が死滅しました。最も打撃を受けたのが人類の直系の祖先、哺乳類型爬虫類です。地底マグマの大噴出スーパーブルームによる史上最大級の火山噴火で二酸化炭素が増え、海底のメタンハイドレード融解で発生した膨大なメタンガスが、温暖化と低酸素状態を招いたからでした。呼吸効率改善のために横隔膜を進化させた私たちの祖先は、胎生で子供を産み、母乳で育てる独自のシステムを作り出します。
2億5千万年前の地球、海で進化した動物たちが陸上に進出して1億年、この時代は史上はじめて地球上にあまねく豊かな生態系が築かれた時でした。私たちの祖先は哺乳類型爬虫類でイタチのような形をしておりキノドンと呼ばれています。
しかし、どうしてこうも祖先たちを危機が襲うのでしょうか、過酷な戦いはなおも続きます。大異変は突然はじまりました。シベリア地方で大噴火が起こったのです。噴き出した溶岩の高さは2000~3000m、現在観測される最大の噴火とくらべて10倍の高さです。溶岩は50km以上にわたって続く地割れからカーテンのように噴き出しました。こうした噴火がシベリアのあちこちで同時に起こったのです。逃げまどう動物たち、流れ出した溶岩はシベリアの森林を次々と巻き込み洪水のように流れ続けました。
地球がかつて経験したことのない巨大噴火がなぜこの時期に起きたのでしょうか。3億年前、それまでバラバラだった大陸が一か所に集まりました。パンゲアと呼ばれる超大陸の形成です。海の底を形成していた岩石が地球内部のマントルに向けてゆっくりと沈み込みます。それがあるとき一斉に地下2900kmの核に向かって落ち込み始めたのです。その反動で核から地表に向かう巨大な上昇流が生まれました。スーパープルームという現象です。このスーパープルームの直径は1000km、この巨大な火の玉が突き上げ、一気に噴き出ようとしたのです。
スーパープルームによって引き起こされたシベリアの巨大噴火、これが40兆トンの二酸化炭素を放出しました。この温室効果により地球は徐々に暖められます。それが異変の主役を呼び起こします。深海底でメタンハイドレートが融けだしたのです。泡となった大量のメタンガスが大気中に一気に噴き出して行きました。地球の温暖化が急激に加速します。その結果、海水温が更に上昇し、深海底ではさらに多くのメタンが放出されることになったのです。
地球は赤道付近で7、8度、極地付近で25度も気温が上昇し超高温にさらされることになったのです。この異常な高温は生態系を容赦なく襲いました。生き残ったのはわずか5%の動植物だけ、こうして地球史上はじめて築かれた豊かな生態系は完全に破壊されることになったのです。
95%の生物が消え去り、史上最悪の大量絶滅事件は終わりました。私たちの祖先キノドンはかろうじて生き残った5%に含まれていましたが、それは全くの偶然だったと考えられています。しかも苦難はそれだけではありませんでした。動物が呼吸困難に陥るほど酸素濃度が低くなってしまいました。植物のほとんどが絶滅したことに加え、メタンが次々と反応し酸素を減らしていったためです。この低酸素期間は1億年続きました。絶滅を生き残ったものの祖先のキノドンは低酸素環境の中、さらなる暗黒の時代に突入することになったのです。1億年という長い長い闘いです。しかし、よく頑張って生き延びてくれたものです。
大量絶滅から1億年後(1億5000万年前、ジュラ紀後期)、生物の世界が活気を取り戻したとき、その様子は以前と劇的に変わっていました。巨大な爬虫類、恐竜の出現です。恐竜は他の生物を大きく上回る活動能力を備えていました。一方、この頃の私たちの祖先は恐竜に怯えながら暮らすネズミのような小さな生き物に姿を変えていました。かつて繁栄を極めた面影はありません。
なぜ私たちの祖先に変わり爬虫類が巨大化し地球を制覇することになったのか、それが大量絶滅後の生物進化をめぐる大きな謎となっていましたが、最近の研究で徐々に明らかになってきたのは、恐竜は現在の鳥と同様の呼吸システムを持っていて、それにより低酸素環境を有利に生き抜くことができたのだと考えられています。
私たちの祖先も恐竜とは別の方法で低酸素時代に対応していました。肋骨をお腹から消し去り、横隔膜を持つことにより肺に効率的に空気を入れたり出したりすることに成功したのです。しかし恐竜の呼吸システムの方が優れていたため、恐竜を上回って繁栄することはありませんでした。
ところが、私たちの祖先がとったこの低酸素対策が思わぬ副産物をもたらすことになったのです。一つには授乳を行う時、胴体をねじりお腹の部分を横にして子供が母乳を飲みやすい姿勢をとります。身体を横たえ腹から染み出す栄養分を与えるという哺乳類の最も基本的な子育てができるようになったというのです。生まれた子供に母乳を与え慈しみながら大切に育てるという哺乳類のライフスタイルが芽生えていったのです。
もう一つ大きな飛躍につながったことがあります。恐竜の脅威にさらされながらの1億年におよぶ低酸素の環境が私たちの祖先を真の哺乳類に進化させる決定的な役割を果たしたのです。それは、卵で子孫を増やす方法から、お腹の中で子供を育てる、いわゆる胎生への進化です。低酸素の環境では殻に閉ざされた卵による繁殖は有利とはいえません、子孫を確実に残すために哺乳類は繁殖の方法を変えたのです。恐竜の脅威と低酸素の環境という暗黒の時代の中、哺乳類は子孫を確実に育て上げ未来にかける戦略を強めていったと考えられています。ここに現在の哺乳類のライフスタイルが完成しました。私たちの祖先は、この苦しい環境の中、なんと素晴らしく進化してくれたことでしょう。
恐竜の時代が始まってから1億6000万年後、直径10kmの隕石の衝突が地球に再び大量絶滅を引き起こしました。長く続いた恐竜の支配がやっと終わりをつげたのです。その後、酸素濃度も回復し全く新しい時代が始まりました。恐竜から効率的な呼吸システムを受けついだ鳥たちは、それを飛行へと応用し大空を自由に舞っています。一方、私たちも、祖先から受け継いだ酸素の効率的な利用によって、思わぬ飛躍を遂げました。大きな脳を手に入れたのです。それは私たちの祖先が大量絶滅を生き残り数々の試練を戦い抜いた結果もたらされたものなのです。

「6000万年前 大陸大分裂 目に秘められた物語」
恐竜絶滅後、地上に君臨したのは体長2mの巨大な肉食鳥ディアトリマでした。私たちの祖先はカルポレステスといいリスのような形をしていました。北米に生息していた私たち霊長類の祖先は、巨大鳥との争いを避けて樹上に生活するようになります。
大陸分裂の激しい時代、その頃アジアは孤立した大陸でした。そのためアジアだけは巨鳥が生息せず、その代わりに肉食哺乳類のハイエノドントがアジアに君臨していました。恐竜絶滅から1000万年後、地球は海上に高さ数キロの火柱が何本も立つほどのメタンハイドレードの噴出により温暖化、そのためアジアとアメリカ大陸をつないでいたベーリング陸橋という氷が解け、アジアとアメリカが陸地で繋がり行き来ができるようになりました。巨鳥ディアトリマと肉食哺乳類ハイエノドントが戦う時が来たのです。その結果、集団で戦いを挑むハイエノドントが巨鳥を絶滅させ、とうとう哺乳類が世界に君臨する時代がはじまりました。
地球温暖化により、貧弱な広葉樹の森が巨木の広葉樹の森に育ち、高いところで隣の木と枝が重なり合うようになりました。地球上に初めて出現した樹間の世界、このことが私たちの祖先に大きな繁栄をもたらせました。なぜなら、地上に降りる危険性がなくなったからです。
樹間で暮らし始めて500万年後、私たちの祖先はショショニアスといい猿に近くなりました。リスのように横に付いていた目が樹間で暮らすようになり正面に並ぶようになりました。目が正面を向くと、視界は狭くなりますが、その代わり両目の視界が重なるようになります。この重なったところでは距離感がつかめるようになり立体視ができるようになりました。立体視ができると飛び移る木までの距離感が正確になります。樹間が立体視という新たな進化をもたらしたのです。
霊長類が繁栄を極めていた5000万年前、南極大陸は南の果てにありながら亜熱帯の森が広がる温暖な大地でした。その頃の南極大陸は南アメリカやオーストラリアと陸続きでした。そのため赤道から陸地伝いに暖流が南下してきて南極を温めていたからです。ところが大陸移動で南アメリカとオーストラリアが北上を始めます。孤立した南極の周りをグルリと深い海が取り囲みました。3300万年前頃には自転の影響で南極大陸の周りに周極流という海流が生まれます。これが赤道からの暖流を遮ってしまいました。暖流が到達しなくなったことで南極は氷の世界へと変貌し地球を究極に冷やし始めたのです。
この寒冷化によって世界中に広がっていた広葉樹の森は急速に姿を消していきました。残ったわずかな森で私たちの祖先は必死に命をつなぎながら新たな進化を遂げることになります。森が減少すると果実は減り、エサをめぐる競争が激しくなります。私たちの祖先は他の猿に先んじて効率的にエサを見つけるために高い視力を得ることに成功したのです。これが生き残る切り札になりました。
この視力の高さが更なる進化をもたらしました。目がよく見えることで細かな動きを判別できます。それが、やがて顔に豊かな表情を生んだのです。そして表情を使いコミュニケーションを構築し、集団に秩序と協力関係が生まれたのです。
かつて、私たちの祖先はたったひとりで様々な苦難にたちむかっていました。その時代、祖先の顔に表情はありませんでした。地球が温暖化し、樹間という場所で繁栄の道を歩み出した祖先は、そこで仲間たちと出会います。その後、厳しい寒冷化の中で高い視力を進化させます。高い視力を持った祖先が群れの中でお互いの顔を見つめ合うようになったとき、表情が生まれました。表情によるコミュニケーションによって仲間との絆が深まって行きました。その絆で共に外敵と戦い、共にエサを探すようになった祖先は、ついに木の上に隠れ住む森のくらしを捨て、仲間と共に草原という新天地に進出していくことになるのです。
(霊長類の中で、ヒトの目にだけある特徴があります。白眼です。ヒト以外の霊長類(猿やチンパンジーなど)に白眼はありません。弱肉強食の世界に生きる動物にとって白眼は不利です。白眼があることでどこを見ているかわかるため敵と争う時、次の攻撃を読まれてしまうのです。ヒトは争いの少ない社会を築いたおかげで白眼のデメリットが消えました。むしろ白眼を使って誰を見ているか、はっきりと表現するようになりました。気持ちを伝えたい相手をしっかりと見つめ、より深いコミュニケーションをとりはじめたのです。)
「様々な絶滅の果てに生き延びた ヒト」
荒ぶる星・地球の大変動に翻弄されて、生命のとった戦略は多様性でした。私たちヒトも環境変動に対して、多くの種を生み出しては、そのうち一つの種が生き残るというプロセスをくり返してきました。およそ200万年前のホモ・エルガステルとパラントロプス・ロプストス。3万年前に絶滅したネアンデルタール人とホモ・サピエンス。両者の違いは何だったのでしょうか。46億年の旅の終点、人類誕生の謎に迫ります。
人類の進化の舞台になったのはアフリカ大陸です。およそ700万年前、人類はチンパンジーの祖先と分かれ2本の足で歩き始めました。その理由はわかっていません。400万年前の私たちの祖先アウストラロピテクスは2足歩行をしているため背筋がまっすぐに伸びていました。身長は140㎝、腕も長いままでチンパンジーとあまり変わらず、その生活も同じようなものでした。
2億年前の地球。当時南半球ではアフリカ、インド、南極が集まり巨大な大陸を作っていました。この大陸が分裂をはじめます。インドが切り離され北上していきます。およそ5000万年前アジアに激しく衝突、ぶつかった大陸が隆起しヒマラヤ山脈が誕生しました。人類の進化が始まったころの700万年前のヒマラヤは標高5000mを超え地球の気候を大きく変え始めていました。夏の乾燥した上昇気流がアフリカへと吹き下ろします。それがアフリカを乾燥させ急速に熱帯雨林を減らし、私たちの祖先の主食である果実を激減させました。
この絶滅の危機を生き延びるため、私たち人類は約200万年前、劇的な変化を遂げました。全く違った2種類の人類が登場したのです。一つはホモ・エルガステル、身長170cm、身体は薄い毛におおわれていました。肉食で動物の食べ残しを食べていました。もう一つはパラントロプス・ロブストス、頭の上に突起があり顔の筋肉を支えていました。身長150cm、ずんぐりとした体格をしていました。こちらは草食で土の中の堅い木の根を食べていました。これは、肉食や草食、多種類の仲間を増やして絶滅を避けようとする生命の本能的な備えでした。
生き残ったのは肉食のホモ・エルガステルです。乾燥の進行で熱帯雨林から大草原サバンナに変わってしまったアフリカ大陸では、肉食動物も草食動物も多く増えましたが、弱肉強食の中、敢えて肉食を選んだホモ・エルガステルはライオンやタイガーの格好の餌食でした。しかし、肉食を選んだことが脳を大きくする助けになり、脳が発達していきます。考えることでどんどん大きくなる脳。やがて頭を使い、集団で狩りをするようになり生きのびたのです。
その後もアフリカでは様々な新しい人類が誕生していきました。その度に脳は発達していきました。ホモ・エルガステルの次に現れたホモ・エレクトスの脳は1000mlを突破しました。このエレクトスはアフリカを出てアジアへと広がっていきました。その子孫は現在のインドネシアに移動してジャワ原人となり、やがては中国に達し北京原人となりました。そしてついに20万年前、アフリカ中央部でホモ・サピエンスが誕生します。その脳は1400mlまで大きくなったのです。ただし、その脳の大きさだけが私たちが繁栄した理由ではありませんでした。
私たちと同じ大きさの脳を持っていたネアンデルタール人は30万年前に登場し、氷河期の真っ最中だったヨーロッパに進出し寒さに適応した人物です。3万年前まではホモ・サピエンスと共存していましたが絶滅してしまいました。生きるための能力は私たちのホモ・サピエンスと同等だったといいます。肉を切るための石器も目的により使い分け、氷河期のハンターとして大いに栄えました。では何が運命を分けたのでしょう。それは、喉仏の高さでした。ネアンデルタール人の喉仏は、ホモ・サピエンスよりも高い位置にあり言葉をうまく操れなかったと言います。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール、2つの人類の運命を分けるときが来ました。4万年前、ヨーロッパは200万年続いていた氷河期の最後のピークを迎えていました。この過酷な時代を生き抜くために、言葉はホモ・サピエンスにとって大きな助けたとなりました。ホモ・サピエンスは言葉によって獲物の移動時期や場所の情報を交換し、それに備えて狩りの計画をすることができたのです。言葉は未来を予測することができました。言葉による進化が始まったことで人類の歴史は大きく変わり始めます。知識を受け継ぎ進化する狩りの智慧、ホモ・サピエンスは飛躍的に食料を得る力を増していったことでしょう。…それは、ネアンデルタール人にはかなわぬ夢でした。3万年前、ネアンデルタール人はひっそりと消え去っていきました。
その後、私たちホモ・サピエンスは唯一の人類として歩み続けることになったのです。フランスのラスコー洞窟にはホモ・サピエンスが描いた鮮やかで生き生きとした獲物の壁画があります。このように言葉以外でも、ホモ・サピエンスは様々な形で次の世代に知識を受け継いでいきました。

1万年前、厳しい氷河期が終わり温暖な気候が訪れました。その中、ホモ・サピエンスの繁栄がはじまります。人類には、700万年の歴史のほぼ全ての時代に複数の祖先が存在し、その数は20種類もいたといいます。たった1種類だけ生き残った私たちの祖先ホモ・サピエンス。その道のりにはネアンデルタール人をはじめ絶滅していった19種の人類の存在があったのです。私たちに至る46億年の旅、それは数々の大変動を繰り返してきた荒ぶる星・地球を舞台に繰り広げられてきました。小さな原始の微生物から始まったその旅は気の遠くなるような長い時間をかけた命のリレーでした。

長い生命の歴史で、王者に君臨した種は必ず絶滅します。繁栄を謳歌し進化を忘れたものは絶滅するしかないのです。

・今、大陸は徐々にひとつに集まろうとしています。2億年後には再び超大陸が誕生すると考えられています。その時、大陸を割るようなスーパープルームの突き上げがあるかもしれません。
・恐竜を絶滅させたのと同じ規模の隕石の衝突は数千万年に一度起こると推定されています。恐竜の絶滅から6500万年たった今、いつまた巨大隕石が人類を襲うとも知れないのです。
・しかし、天と地からの大変動を待たずしても、地球は現在、大変動の只中にいます。毎年、人類は200億トン以上の二酸化炭素を排出しています。これは2億5000万年前のスーパープルームによる二酸化炭素排出ペースの300倍以上に相当します。スーパープルームがきっかけで地球が灼熱地獄になるまでには、10万年単位の年月がかかっていました。人類が引き起こしている変動は生物95%を絶滅させた事件より、はるかにペースが速いのです。

バクテリアだった私たちの祖先はずっと弱者の道を歩き続けました。弱者だったことが幸いして地球の変動を力に変えることができ40億年かかってヒトに進化しました。言葉を手に入れたとき、ついに人類は地球の覇者になることを約束されました。しかしそれは、盛者必衰の理への第一歩であり自滅への入り口だったのかもしれないのです。人類が生き残れるかどうか、そのカギを握るのは人類をここまで進化させる原動力となった言葉です。言葉を使って自らの暴走に歯止めをかけ、言葉によって共に協力し合う。言葉というもろ刃の剣、その使い方如何に未来がかかっているようです。

(参考: 2004年放送・NHKスペシャルより)
2012. 6. 24
「私たち日本人はどこから来たのだろうか?」

 私たちの祖先はいつ、どこからやって来たのか? 日本人はどのように生まれたのか?…あるとき急に気になってしまいました。そんな時、ちょうど良いテレビ番組を見ました。やはりHNKです。
顔の骨格の調査により、日本人は、①北方アジア系、②朝鮮半島系、③南中国系、④インドシナ系、⑤南太平洋系 の5つのタイプに分かれているようです。

日本列島に人のいた痕跡が見つかるのは2~3万年前の氷河期からである。この時代より前に人類が日本列島に住んだ痕跡は全くない。
その時代、地球は広い範囲で厚い氷に覆われ、海面は今より100m以上下がっていた。その頃の日本列島は今と形が異なり、北海道がサハリンを介して大陸とつながっていた。1つのルーツは、私たちの祖先はアジア方面から氷河期に、歩いて渡って来たと考えられる。
縄文人の骨からDNAを取り出し、日本人のルーツを調べると、バイカル湖周辺に住むシベリアのブリヤート人のものと多く一致した、私たちの遠い祖先の一派は北のシベリアからやってきたというのである。

現代人の直接の祖先であるホモサピエンスは20万年前にアフリカで誕生したと考えられている。そして10万年前、アフリカを旅立ち世界中に広がっていく。その移動は、主に、ヨーロッパ大陸に向かう流れと、東南アジアに向かう流れがあった。人類は温暖で住みやすい地域を目指したのである。
ところが、そうした流れとは逆に、極寒のシベリアへ移動する人々がいた。なぜ氷河期のシベリアを目指したのか、それはシベリアのマリタ遺跡に見ることができる。氷河期のシベリアは長く氷で閉ざされていたのではなく、短い夏の間は、数百種類の植物にあふれる平原が広がり、多くの動物が住みついていた。陸上最大の動物であるマンモス、洞穴ライオン、毛サイ…。今は絶滅した多様な動物がいた氷河期のシベリア、人々は食料となるこれらの動物を求めて、遥かアフリカからシベリアへとやってきたのである。

私たちの祖先の一つのルーツは、巨大マンモスに挑んだマンモスハンターだったのである。ヤリの側面に鋭い石の刃を埋め込んだ狩りの道具(細石刃)を使っていた。ハンターたちは集団で協力し水辺にマンモスを追い込んでいく、そして、ぬかるみに足をとられて動きが鈍くなったところを何日もかけて攻撃し弱らせて仕留める。こうした狩りを通じて、人々は高度なコミュニケーション能力まで身につけていった。そして訪れる長い冬には、短い夏に蓄えた大型の獲物を食いつなぎながら過ごした。人類として初めて極寒のシベリアに進出した私たちの遠い祖先たちは、数々の智慧を生み出し過酷な環境を生き抜いていったそうです。

およそ2万年前、そのシベリアで突如異変が起こる。その後の集落に人々が暮らした痕跡がなぜか途絶えてしまうのである。シベリアのエニセイ川付近には氷河期の氷が融けずに残っている。その中の空気に残る酸素を分析した結果、およそ2万年前に氷河期の中でも最も寒い“最寒冷期”をむかえていたことがわかった。地球の平均気温がさらに10度下がり、シベリアには植物が全く生育できない極地砂漠が広がった。この極端な寒冷化によりマンモスなどが生息した緑豊かな植生は急激に縮小、動物たちは移動を開始する。

これに伴い人々も中国方面へ移動、またはベーリング海峡を通ってアメリカ大陸に移動した。その中に、サハリンを通り日本列島に向かう流れもあったのである。それは、サハリン付近や北海道千歳市柏台Ⅰ遺跡に細石刃の遺跡が残っていたこと、北海道にマンモスの骨が残っていたことで、マンモスハンターたちが確かに日本列島にやってきたことがわかる。

北海道からさらに南に移動する人々の行く手を水深の深い津軽海峡が遮っていた。ところが氷河期の最寒冷期に海峡が凍りつくことがあった、人々はこの機会をとらえて氷の道となった海峡を越え、新天地本州を目指したのである。

シベリアから日本列島への移動は2万年前をピークに何回も繰り返されている。対馬海峡を経由してくる流れもあった。当時の日本列島の遺跡は、人々が瞬く間に日本列島全土に広がっていったことを物語っている。2万年前に関東平野にきた人々が見たのは、遠くには富士山がまだ活発に活動し、草原にはナウマンゾウをはじめ様々な大型動物が住みついていた風景である。人々はかつてのシベリアのようなこの新天地で再び動物を追いかける暮らしをはじめたのである。

しかし、その暮らしも長くは続かなかった。私たちの遠い祖先は、この日本列島で新たな試練に直面する。氷河期が終わり、急激な温暖化がはじまったのである。近年の調査によると50年間に地球の平均気温が7度上昇したという。現代の地球温暖化を遥かに上回るスピードで気温が上昇し続ける。地球を覆っていた厚い氷が溶けだし、海面が上昇、氷河時代に大陸と陸続きだった日本列島は現在の形になる。

大陸から切り離された新たな世界で、私たちの遠い祖先は、温暖化に伴う環境の大激変に立ち向かっていく。針葉樹が点在する草原だった日本列島、急激な温暖化とともに、ブナやナラなどの広葉樹が生い茂る森に変わっていった。この森林化という環境の変化が祖先を窮地に追い込む。急激な森林化が進んだ1.5万年前頃、動物の生息状況に大きな変化があった。祖先たちの貴重な食料だった大型動物が激減したのである。

1.5万年前以降の地層から見つかる動物の化石は大きくてもシカやイノシシ、ほとんどがタヌキやネズミなどの小動物である。数が減った大型動物を絶滅に追い込んだのは祖先たちである。細石刃で大型動物を狩りつくしてしまったのである。こうして食料不足という深刻な事態が起こった。この危機に祖先たちは新たな狩りの道具を作りだす。石の矢じりである。この矢じりをつけた弓矢で小動物をとらえた。
しかし小動物だけでは空腹を満たすことはできなかった。祖先たちの新たな食料探しがはじまる。森に大量にあるのはドングリだったが生でも焼いても渋くて食べられない。森という新たな環境の中で人々が生きていく道は閉ざされたかに見えた。

東京新宿(百人町三丁目遺跡)で私たちの祖先を救った新たな道具が発見された。土を焼き固めた土器の破片である(約1.2万年前のもの)。破片をつなぎ合わせて土器が復元された、土器は火にかけて煮炊きすることをはじめて可能にした道具である。あのドングリも煮ることで渋味がなくなり人々の食料に変わった。私たちの祖先は、エジプトやメソポタミアよりも数千年早く、土器を使い食料危機を乗り切ることに成功したのである。

日本列島の人々は、このように早い時期にどうして土器を手にすることができたのだろうか。土器は1.3万年前にシベリアのアムール川流域で生まれたという説が有力である。魚の脂を貯蔵する容器として使われたという。この土器という智慧もまたシベリアから日本列島にもたらされたものだったのだろうか。

シベリアの土器は厚く1.5cm、新宿の土器は5mmと薄く焼かれている。土器は薄く作った方が熱の回りがよく、少ない燃料で効率よく煮炊きできる。しかし薄い土器をつくることは現代人にとっても容易ではない。煮炊きの効率を高めるために極限まで薄く作られた土器、土器の断面を撮影すると動物の毛を混ぜて強度を大きくしていた。貯蔵する土器から煮炊きする土器へ、私たちの祖先はシベリアから持ち込まれた土器を見事に改良していたのである。

森の木の実を貴重な食料に変える土器、この日本列島ならではの智慧を手にした祖先たちはこの大地に深く根付いていく。その後土器は列島全土に広がり1万年にわたって続く縄文時代が始まる。この縄文時代、人々はさらに様々な創意工夫を凝らし、豊かで多彩な土器の文化を築き上げていった。
極寒のシベリアで数々の智慧を育み、度重なる環境の変化を乗り越えてきた私たちの祖先たち。はるかな旅を経てこの日本列島で私たち日本人の第一歩が始まったのである。

この他にも、東南アジアや南太平洋などルーツはいくつかあるようです、果たして自分は、どこから来たご祖先様の末裔なのだろう。それにしても、確実に、世界のどこからか日本にやってきた遠いご先祖様の血が自分に流れているのだ、不思議であり、畏れ入るばかりです。

(参考: 2001年放送・NHKスペシャルより)
2012.5.27
「小さな存在である自分」

 自分という人間が、こんなに “ちっぽけ” であり、しかも “奇跡的” な存在である…ということについて考えてみたい。 

まず宇宙を眺めてみよう。この広大な宇宙には、銀河系のようなものが他に100億~1000億もあるという。銀河系の広さは直径10万光年ほど、それが他にも100億以上あるというのだ。
感覚では分からない広さである。

その一つの銀河系の中には、太陽が20億個もあるらしい。太陽というのは一つではないようだ…20億個の太陽のうちの1つが私たちの太陽系を構成しているということだ。

私たちの太陽系の中で、45億年前に隕石どうしが衝突して地球が出来た。そして、なぜか唯一地球だけに「水」が存在した。太陽が20億個ある銀河系が100億以上もあるような広大な宇宙で唯一だ。
これが大変有難い奇跡であるという。

ここからは地球のことをよく見てみよう。
その奇跡の水の中に、35億年前に単細胞の「生命」が生まれた。
それからさらに10億年経った26億年前に、細胞は「雄と雌」に分かれた。
そこから長い長い年月をかけて細胞が多種多様に進化し、海の中に色々な「動植物」が誕生していった。

やがて岩だらけの地上にコケが生え、少しずつ少しずつ「土」ができてきた。
4億年前、土が増えて、少しずつ緑が増えて来たころに、生物が地上にあがった。
そして地上に色々な「動物」が生まれていった。

その中でも人間に近いのが「猿」である。
400万年前になると「猿人(アウストラロピテクス)」になった。中東アフリカで発見されたのはルーシーという名の女性である。
200万年前には「ホモハビリス」が石器を使った。
180~60万年前にはジャワ原人、北京原人に代表される「原人」が登場する。氷河期には毛皮を着て、天幕張りのシェルターに住んだという。
50~30万年前には「旧人」であるネアンデルタール人が葬式を行った。
こうして次第に人間に近付いてきて、ようやく20万年前に現代人と同じグループである「新人」に進化したのである。

自分の祖先というのは、10代遡るだけで1048人、20代遡ると100万人を超えるという。
現代人のグループだけで考えても、20万年前から、産んで、次の代が産んで、そのまた次の代が産んでと、連綿と続いてきた生の営みだが、何代も何代も気が遠くなるほど昔からずっと続いて、やっと自分が生まれたのだ。ご先祖様の誰か一人だけ欠けただけでも今の自分は存在しないのである。考えてみると恐ろしくもある事実である。

最初に戻るが、広い宇宙からスタートして、地球にだけ水が存在したおかげで、細胞が生まれ、動植物に進化して、猿から人間へ、そして何代もの祖先の営みの末に今の自分が生まれた。
これは奇跡の中の奇跡なのだろうと思う。
生まれること自体が奇跡であるのに、しかも自分が人間に生れたというのだ。犬とか虫とか雑草に生れなかったのだ。これを「生きている」のではなく、「生かされている」という表現の方が正しいという人もいる。

中国古典「菜根譚」の一文にある。
「やがて山河でさえ砕け散るのだ、まして人間の身体なんて微塵に吹き飛んでしまう。」 
悠久の時間、大自然の中に身を置いてみると、人間はしょせん小さな存在に過ぎない。
たかが80年の自分の一生の何と短いこと、人間という存在の小ささ、儚さを思い知らされる。
私は、座右の銘として、 “人間はちっぽけな存在である” ということをよく考えるようにしている。
奇跡的に生まれた、とても小さな存在である自分、そして短く儚い人生。精一杯生きてみたいものである。

昨日、日本時間2011年3月11日14時46分18秒、我が国で観測史上最大のM9.0、東日本大震災が発生した。

(完)
2011.3.12
「第一測工の神頼み」

わたしたちは、毎年正月明けに、会社の行事として神社に参拝し“商売繁盛”の祈願をします。
公共事業に携わる私たちの業界は、現在の世界経済恐慌以前から事業量が減っているという背景があります。
ずっと地元の神社にお参りしていましたが、売上が下がり始めた頃から、
「自分たちの努力が足りないからご利益がないのだ…。」
と反省し、この神社参拝の行事に気合いを入れることにしました。

~2003年 二荒山神社(宇都宮市)
県内の由緒ある神社を毎年参拝し、気持ちをこめて祈願していましたが、だんだん業績が心細くなって来ました…。
「そうか、参拝の仕方に気合いが足りないのだ」
2004年 成田山新勝寺(千葉県)①
初詣の名所、成田山まで足を伸ばす。
「今年は結構がんばって皆でここまで来たぞ!」
「社長、神社じゃなくて寺のようですが?」
「おっ、確かに…(沈黙)…神社と寺では違うよなぁ。(まあいいだろう。)」(下記解説①へ)
遠くまで来て、達成感を感じ、帰りに宴会をやってしまった。
2005年 成田山新勝寺(千葉県)②
ご利益がなかったのでもう1回行ってみた。
→ すると…売上が回復。「おっ!」
2006年 明治神宮(東京都)①
「みなさん、今年は気をよくして、もっと盛大に行きます。明治神宮にしましょう。」
「マジですか??」
もっと良いことがあるかもしれない…と都内進出!日本一参拝客の多い明治神宮なら大丈夫。
→ しかし結果出ず。
2007年 明治神宮(東京都)②
参加メンバーが足りないようなので、増員してもう1回行ってみたが…
→ 全然ダメ。
2008年 明治神宮(東京都)③
3度目の正直!また明治神宮。
→ なんと努力が実ったのか売上が上昇に転じた。
「社長、効きましたねぇ。」「だから言っただろう。」
2009年 伊勢神宮(三重県)
「みなさん、行くところまで行きましょう!」
今年の初め、とうとう神社仏閣の頂点に君臨する「お伊勢参り」へ社員全員で参拝!!
当社のことばかりではなく、業界全体を良い方向に向けるほどの意気込みである。
「これで我が社も安泰ですね。」
バスで10時間。もう行きたくないとの声も。

私たちは宮司さんに教えられました。
宮司「参拝は、お願いばかりではいけません。
1年間を無事に過ごせたことへの感謝の気持ちもお伝えするのです。」

社員全員で伊勢神宮内宮の神楽殿で形式に則って祈願をし、本当に気持ちが洗われました。
神域に接し、「そうか、来られただけでも幸せなんだ。」と気付きました。
私たちは、これからも 感謝の気持ちを伝えるために 神社に参拝したいと思っています。

「社長、ここまで来て、ご利益がなかったらどうするんですか?」
「屋久島の縄文杉でも拝みにいくか。」
「もしくは、ネパールみたいのですね。」

(……実は、ここから5年後の2014年に、私たちは一応、出雲大社まで行ってしまったのでした(^_^;) )  

解説① …神社と寺は違うのに、同じようでもある。これは何なのか??

「神社と寺は違う。神社は神道で、【産土神(うぶすながみ)、天神地祇(ちぎ)、皇室や氏族の祖神、国家に功労のあった者、偉人・義士などの霊を神として祀(まつ)った所。(大辞林より)】
寺は仏教で、【釈迦(しゃか)の説いた、仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。人生は苦であるということから出発し、八正道(はっしょうどう)の実践により解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)に至ることを説く。前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(大辞林より)】
でもなぜ、神社の土地に寺があったり、神社にあるはずの鳥居が寺にもあったり、神社に五重塔や鐘があったり、同じようなことをやっていたりと、ごちゃまぜなのだろうか。
それは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)といって、【日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(すいじやく)説が流行し、両部神道などが成立した。神仏混淆(こんこう)。(大辞林より)】ということのようです。
ですので、神社と寺ではどちらに詣でたら良いのかと言えば、どちらでもよく、感謝を捧げ、更なるご加護をいただけるように願う気持ちを持つことが大切なのだと思います。

(完)
2009.3.5
「北へ帰る雁」

(博物学者ミルトン・オルセンの雁の習性に関する著作から引用)

夏を過ごすために北へ帰る雁の群れがV字隊形で飛んでいるのを見たことがあるだろう。この隊形には理由がある。

雁が羽ばたくとすぐ後ろに上向きの風が起こることが分かっている。群れがV字隊形で飛ぶことによって、単独で飛ぶときよりも飛行距離を71%以上伸ばせるのだ。
教訓その1
同じ目標と連帯意識で結ばれた仲間が同じ方向を目指せば、お互いの推力が働いてより早く簡単に目的地に到達できる。

--------------------------------------------------------------------------------

隊列から離れた雁は、単独で飛ぶときと同じ抵抗を急に感じるため、すぐ隊列に戻り、直前を飛んでいる仲間がつくり出す上昇気流に乗ろうとする。

教訓その2
同じ目標を目指す仲間と一緒に行動すれば、強い団結力が生まれ、危険から守られる

--------------------------------------------------------------------------------

先頭の雁が疲れたら隊列の後ろに回り、別の雁が先頭を飛ぶ。

教訓その3
同じ目標を目指す仲間は、それぞれ役割分担をし、助け合うことによって目的地に到達できる。

--------------------------------------------------------------------------------

後ろにいる雁は、前を飛ぶ仲間がスピードを落とさないように、鳴き声を上げて励ます。

教訓その4
今、一所懸命がんばっている人に声をかけ、激励する必要がある。仲間同士が応援し合うのだ。

--------------------------------------------------------------------------------

最後に、一羽が病気になったり、撃たれたりして隊列を離れた場合には、別の二羽が一緒に隊列を離れ、傷ついた雁を守る。仲間が再び飛べるようになるまで、あるいは死ぬまで、そばに付き添っている。その後、自分たちだけ隊列をつくるか、ほかの群れに加わって元の群れを追い掛ける。

教訓その5
仲間が助けを必要としているときは、労を惜しまず即座に手を差し伸べ、最後まで一緒に努力してあげることこそが真の思いやりである。そして、本来の目的を忘れることなく、直ちに以前の目標にもどって行こうとすることが真の力強さである。


・・・みんな、雁に負けるな!

(日経BP社「破天荒!」 ケビン&ジャッキー・フライバーグ著 小幡照雄氏訳 1997年7月28日発行 より)
(完)
2011.3.12
「日本の農業」

 我が栃木県は、東京より新幹線で50~60分、県都宇都宮市までは約100km、関東地方の北部に位置する内陸県である。地形は、県の北部から西部にかけて「栃木の屋根」といわれる白根、日光、那須の山々が連なり、東の茨城県との県境である八溝山地帯と共に内陸の平野部を囲んでいる。気候は一応、太平洋型気候であるが冬の朝晩の冷え込みは厳しい。夏は夏で盆地の特性として蒸暑い。県の土地利用としては、北西部から東部にかけては森林地帯で、首都圏の重要な水源地となっている。また、中央部から南部にかけては農用地が広がり、多彩な農業が展開されている。一方、鉄道や主要国道沿いには都市も発達している。首都圏の一角を担い、生鮮食料品などの供給基地として、また、通勤労働者の居住基地として、さらには、山紫水明の地を生かした観光・レジャー基地としても注目される。世界遺産となった日光の社寺、鬼怒川・那須・塩原の温泉と自然公園、宇都宮の餃子などは全国的に有名である。  

ここで農民と農業の歴史を振り返ってみたい。栃木県の歴史は昭和25年に県南の葛生町で発見された化石骨 や遺跡から想定すると縄文時代に先行する先土器時代の生活が想定される。やがて縄文・弥生へと続き、中国大陸や朝鮮半島を由来する弥生文化は、西日本から稲作をわが国に定着させることになる。もっとも西日本と比べて栃木県への弥生文化の浸透は遅れて、中期までは農耕よりも狩猟や採集に依存する、どちらかというと不安定な生活を基盤としていたようである。

古墳時代(300~600年頃)へ入ると農業生産力の高まりがみられ、中央の大和政権の影響を強く受け、遅れながらも、水稲農耕という生産基盤を背景として出現してきた有力豪族層と被支配層・農民層との格差が大きく現れてきた時期とされている。その後、645年の大化の改新後、天武・持統天皇のころ、地方行政制度の整理が行われ、栃木県では「下野国(しもつけのくに)」が成立し、律令国家の支配体制がはじまる。

奈良・平安時代(710~1191年)は、中央集権体制が整備され、律令国家としての繁栄をみるわけである。この時代の民衆のほとんどは農民であり、中央政府はこの農民たちからの租税を基礎に財政の安定を図った。政府は農民たちを戸籍・計帳に登録し、納税の義務者の確定と、土地・租税台帳を明確にした。これにより、6歳以上の公民の男女に田地が貸与され、死亡するとこれを6年ごとの班年を待って政府に返す班田収受法がとられた。貸与する田地(口分田)は、男子が2反、女子がその3分の2であったという。こうして始まった農業生産の構造であるが、農民は班田収受法で一応最低限の生活が保障されるかたちをとったが、他方では国家に対する祖(口分田の収穫から3%の稲を納付)、調・庸(布・絹・糸等を納税、我が下野国では麻・紙・紅花などの特産物を収めたと伝う)、雑徭(国内の水利土木工事などへの労役)、兵役(農事のかたわら訓練を受け、非常時に出動)、その他、公有田の耕作などで、国家は繁栄しても、農民の負担は重く、早くも構造の矛盾が生じてきたという。

政府は開墾の拡充を図り、その貢献者に私有の恩典を与えるなどして、貴族や大寺院、地方豪族の私有地拡大への欲望を刺激する施策への変更がなされた。農民に対しては鉄製農具を貸与するなど、それなりの農耕技術の改善もみられたという。このような状況と743年の墾田永世私財法(新しく自力で開墾した土地の私有を許す法律)により、荘園が形成されていく。やがて、有力な荘園支配者(地方豪族や有力な班田農民など)の登場、本家・領家の形成などにより、高い地位を利用して税の免除や警察権の不介入などの権利を確立する荘園も表れ、武士の台頭へと結びついていく。

鎌倉・室町時代(1192~1575年)、安土・桃山時代(1576~1600年)の400年間は、源頼朝、北条時政、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉へと動乱の武家社会であった。日本史でのこの中世は、武家が公家の支配を退け、自らの封建支配を押進める段階である。中央集権体制は崩壊し、武士が領国を分国支配した。

農村でも変化がみられ、武士は農村現地の支配者として地頭を置いた。一方農民側は、領主の非法・圧迫に対抗するために集団逃亡をするなどの動きが生じ、不当な要求や戦乱からの自衛の為に、自治的集団として“村”を作り上げ、農民としてのめざましい発達をとげる。村は指導者として村役人を選び、村の鎮守の祭礼や入会地・灌漑用水の整備や管理を行い、領主へ納める年貢も村の責任で請負う百姓請の制度も生まれた。また、村は連合して“郷”をつくり、共同の抵抗として土一揆を起こしたりした。

こうした状況下で武士側も農村を重視し、村を領国支配の下部組織に組み入れようとした。戦国大名は富国強兵の基盤として産業の開発にも努力した。武田信玄の釜無川筋龍王村の“信玄堤”の築造もその一つである。当県(下野国)における中世農村の実態を直接示す史料は皆無に等しい。

応仁の乱後、約1世紀にわたる戦国争乱を経て、ようやく全国統一の先鞭をつけたのが織田信長である。信長は、日本国の経済基盤の充実につとめた。楽市楽座などで商人の自由営業、商工業の振興策を積極的にすすめ、関所を廃止し、道路・橋梁の修理整備を強力に押しすすめた。

信長の事業を引継いだのが豊臣秀吉である。秀吉の事業中で後世にもっとも大きな影響を与えたものは検地と刀狩りであったといわれる。検地は、農民を掌握し租税の基礎を全国的に実施した。この太閤検地は1582年から行われ、それまでの貫高制から石高制に改め、面積の単位を、6尺3寸(約191cm)四方を1歩、30歩を1畝、10畝を1反、10反を1町というように統一し、田畑・屋敷に等級を定めて石盛(上田1反=1石5斗、中田1反=1石3斗というように)をし、その石高に応じて租税を負担させることとした。また、耕地・屋敷の所持者を検地帳に記載して、租税や労役を負担する責任者を明確にした。この1地1作人制の確立は、一つの土地に何人かが権利をもっていた荘園時代の制度とは全く異なるものとなった。さらに秀吉の刀狩りであるが、彼は1588年に刀狩令を出して、下人などを抱え武士的性格を持つ有力農民などから武器を没収し、これらを完全な農民とした。それとともに、身分統制令を出して(1591)、武士が町人や農民になること、農民が商人になることを禁じ、士農工商の身分を固定する方策をとった。

江戸時代(1600年~)に入り、徳川家康は、将軍と大名との強力な領主権によって統治される幕藩体制を確立させた。身分制は、豊臣以上に「士農工商」、とくに武士の地位を高め、厳格な身分差をつけ、さらに農工商の下にエタ・非人をおき、分裂支配を行った。

さらに注目すべきは幕藩体制を支える経済基盤である。いうまでもなく、租税負担の義務を持つ身分として重要な役割を果たしたのが本百姓であった。当時の農村の多くは50~60戸の自然集落で、領主はそれを行政単位として、名主・組頭・百姓代などの村方三役をおき、村を支配した。村民には、田畑や屋敷を持っている本百姓と、小作で生活している水呑百姓とがあり、村の自治に参加できるのは本百姓であった。また村民を統制・支配するための組織として五人組制度が作られ、租税の滞納や犯罪などに対する連帯責任を持たされていた。年貢は収穫の3分の1であり、小作百姓はさらに残りの半分を小作料として地主に納めなければならなかったので、農民の生活にゆとりはなかった。

そうした中、幕府は、本百姓の没落を防ぎ、一定の年貢高を維持する為に、田畑永代売買禁止令や、一般の百姓は耕地1ヘクタールを標準とし、それ以下のものの土地分割を制限する分地制限令などを発令した。しかし、商品作物の流通拡大が浸透し、農村に比べて、むしろ、商品流通の伸展を背景に、江戸・京都・大阪の三都をはじめ、城下町を中心とする都市の発達は目を見張るものがあり、著しい商業資本の台頭により、武士・農民の経済は破壊され、武士の窮乏と農村の分解が目立ちはじめ、幕藩体制が動揺していった。こうして次第に世の中は、農業から商工業へと移りかわって行く。


ここで農業技術の発展に触れたい。江戸時代は幕政の安定を背景に、農業技術は大きく発展した。最も注目されるのは、水利開発を含む「新田開発」による耕地面積の増加である。耕地面積は、16世紀末に約150万ヘクタールと推定され、これが18世紀半ばには300万ヘクタール、明治初年の地租改正時には450万ヘクタールといわれるから、江戸時代の耕地増加がいかに大きかったかがわかる。

新田の開発には、治水や灌漑工事が必要で、これを伴っての築堤や用水の開削がすすめられた。栃木県の主要な用水路、旧逆木用水の開削が1620年以前、市の堀用水の開削が1656年というように、大河川直結の農業用水路の開削がいずれも17世紀行われ、これが新田開発と結びついた。これは農業的土地改良というよりも、まさに土木工事といえるだろう。

江戸時代農業生産力増大の第2の要因として指摘されるのは、肥料や農具の開発にみられるような直接的な農業技術の発達である。またこの期の農業発展にとって注目されるのは各種農書の出版である。17世紀後半頃から、中国の三大農書の影響を受け、出版された宮崎安貞(筑前・福岡県)の「農業全書」は、一つのバイブル的機能を果たしたといわれている。  


さて、気が付けば農業の歴史に紙面を取りすぎた感があるが、ご容赦願いたい。このように古来より、農業は私たちの「くらし」にかかわる最も基本的な営みであった。生命の源と言っても過言ではない。食料・環境・エネルギーの危機が叫ばれ、我々の暮らしの根本的な転換が求められている今、農業を再度見直すことが課題となっている。

日本の農業・農村も、食料自給率の低下、農地面積の減少、農業者の高齢化と後継者不足など、さまざまな問題に直面している。一方、自然環境の保全、防災、水資源の涵養など、農業・農村の多面的な役割を評価する機運や期待もある。

あるレポートをみると、 「約9割の人が安全な食べ物を求めている。」
(約6割の人は「安さ」も求めている。)

「若者から高齢者まで年代を問わず、世界中から日本の食生活が支持されている。」

「日本の食料自給率に問題を感じ、農業の振興を求める人が9割以上に達している。」

「懐かしい農村風景や自然を維持すべきとする人が8割強に上っている。」

「環境や国土の保全のためにも、田畑を守るべきとする人が9割に達している。」

そして、 「ほぼ100%の人が、基本的には農地を守るべきである」と考えています。

この日本に無くてはならない農地、古来より日本人が守ってきた農業、21世紀の農業・農村のあり方は、農業者や農村在住者、関係者だけの問題ではなく、国民全体で考えるべき問題なのです。 

(弊社による全国誌への掲載文 より)
(完)
2005.3.1
「幼児の冒険」

何かを学んでいる幼児を見て驚いたことがあるでしょう。幼児は何でもやってみようとする。何でも口に入れる。何かを投げると音がでるからおもしろがって何でも投げる。その好奇心はとどまることを知らない。「いつもこんなやり方をしている。」とか、「うまくいくはずがない。」などといった余計なことは一切考えず、ひたすら好奇心に燃えて冒険と実験にのめり込む。その心は自由奔放だ。夢中になって新鮮な驚きに満たされながら学んでいる幼児。我々もこの幼児のように、好奇心旺盛で何でもやってみることを忘れないようにしよう。
こんなこともある。
何でも実験してみなければ、本当の意味で学ぶことは出来ないが、実験にリスクは避けられない。やってみる価値のあることには必ずリスクが伴い、リスクが伴うことには失敗の可能性がつきまとう。私たち夫婦は、長女が初めて歩いた日のことを鮮明に覚えている。彼女にとって壁から手を離すことは、大冒険だった。案の定、彼女は失敗してカーペットにつんのめった。でも、あまりショックを受けず、彼女は起き上がって再び挑戦した。今度はかなりうまくいった。何度も何度も挑戦する。ついに初めて、ひとりで立つことが出来た。私たちは彼女の小さな勝利に拍手を贈った。娘は私たちに励まされ、冒険心を満たしたい一心で勇気をだして何度も挑戦したのである。このとき、リスクを恐れ、わずかな失敗を恐れていたら、わが娘は歩くことができなかっただろう。娘が転ぶのを見ているのはつらかったが、それは彼女が新しいことを覚えるために必要なことだった。失敗を責めずに励ましたから、娘は挑戦を続けたのだ。子供から大人になる道程で、多くの人たちがリスクに対する忍耐力を失ってしまう。失敗して拒絶されたり、信頼されなくなるのが怖いからだ。うちの会社では、そんな不安は振り払ってあげよう。失敗を恐れず何事にも立ち向かっていける風土をつくろう。

(日経BP社「破天荒!」 ケビン&ジャッキー・フライバーグ著 小幡照雄氏訳 1997年7月28日発行 より)
(完)
2011.3.12